※1 南洲墓地 薩軍戦死者の墓地。岩村通俊県令(土佐出身)が、岩崎谷で戦死した西郷ら40人の遺体を浄光明寺(廃仏毀釈で廃寺となっていた)境内に埋葬、その後各地に散在していた薩軍の遺骨が集められた。明治12年(1879)参拝所が設けられ、大正2年(1913)社殿(南洲祠堂)が竣工、大正11年(1922)に南洲神社と改称した。墓碑数748基、2023柱が祀られている。
※2 薩摩藩の家格 薩摩藩士は、鹿児島城下に住む城下士と、外城(地方)に住む郷士に分かれていた。文政8年(1826、西郷が生まれる2年前)の記録によると城下士8,791人、郷士83,567人。城下士は、島津本家の下に御一門(島津四家)、一所持、一所持格、寄合、寄合並、小番、新番、御小姓与と分かれ、寄合並までが上級武士、小番以下が下級武士。その下に郷士、与力、足軽。西郷家は御小姓与であったが、のち小松帯刀(一所持)によって小番に昇格。よって「西郷隆盛は薩摩藩士の中で最下級の武士であった」は誤り。薩摩藩士の上位1割から2割に入っていた。
※3 有馬国子 大山家の長女(4人きょうだいの2番目)。夫は有馬糺右衛門。3人の子をもうける(藤之助、みね、ます)。明治6年(1873)11月、末娘の松子(マスをマツと改名)が小兵衛と結婚。明治15年(1882)8月、弟大山巌に頼まれ、先妻沢子(吉井友実の娘、22歳で没)が遺した3人の娘(長女信子(明治29年19歳のとき結核で死亡)が『不如帰』のモデル)の面倒をみるために東京に居を移す。大山巌(41歳)は翌年、米国留学帰りの会津藩出身山川捨松(23歳)と再婚し、落成したばかりの鹿鳴館で盛大な披露宴を開いた。明治31年(1898)1月、静岡県沼津の大山巌の別荘(現牛臥山公園)で病気になり、5月、渋谷区広尾の日本赤十字社病院に入院(大山巌の日記)。以後は不詳。
※4 伊地知幸介 1854-1917。日清戦争で大本営参謀、日露戦争で乃木希典(1849-1912)のもと第三軍参謀長を務め、『坂の上の雲』で司馬遼太郎に、乃木ともども「無能で頑迷」と評された人物。なお後妻のミキは天皇の侍医の娘で、結婚の際に西郷従道(侯爵)の養女となったのは、伊地知が男爵となっていたための箔付け。夫の死後、宮内省の女官を昭和21年まで務めている。
※5 郡方書役助 「こおりがたかきやくすけ」とも。農民が税として納める米の出来高を見積もって納入させる役所の書記係。西郷は郡奉行迫田太次右衛門の下で働き、農政に関し多くを学んだ。
※6 菊池源吾 西郷は安政5年10月8日(1858年11月13日)藩命により西郷吉兵衛から西郷三助に改名。12月30日(1859年2月2日)菊池源吾と変名して鹿児島を出帆、安政6年1月11日(1859年2月13日)奄美大島着。「菊池」は長崎諫早から鹿児島に移った西郷家が肥後の菊池氏(戦国時代に滅亡)の一族であることからとされるが、「菊池源吾」も藩命による変名である。
※7 桂久武 西郷の親友。文政13年5月28日(1830年7月18日)生まれ。御一門に次ぐ日置島津家当主(藩家老)島津久風の五男。お由羅騒動で切腹した赤山靭負(次男は赤山姓を名乗る慣例)は兄。(藩の勘定方小頭であった西郷の父が、副業として日置島津家の用頼み(御用人)を務めていた。) 25歳のとき一所持の桂久徴の養子となり要職を務めるが、長兄久徴が久光の公武合体に反対したことで左遷され、文久元年(1861)大島警衛方兼銅山方として奄美大島に渡っていた。のち薩摩藩家老、都城県参事など務めたあと、霧島山麓開拓のため辞職。西南戦争では非戦論であったが、西郷の出陣を見送りに行って急遽そのまま従軍し、家の者があとから刀と弓を持って行ったという。明治10年(1877)9月24日、西郷とともに城山で戦死(47歳)。長子桂久暠も従軍して戦死。
※8 仲祐 西郷が沖永良部島から帰還した元治元年(1864)、西郷に付いて鹿児島に行き、慶応2年(1866)京都にも付いていくが、急病にかかり死亡。西郷は川口雪篷宛の書簡で「(京都見物が)島土産にも相成るべしとの老婆心」が災いとなったことを悔い、「心苦しく涙に沈み候」と書き、京都二本松の、薩摩藩邸のあった相国寺に仲祐の墓を建てた。墓銘は西郷自筆の「西郷吉之助家来徳嶋仲祐墓」。徳之島(岡前西郷公園)と鹿児島市(西郷家墓地)にも、仲祐の供養墓がある。
※9 笹森儀助 弘前(青森県)出身の探検家、政治家。琉球探検のあと明治27年(1894)『南島探検』を発刊し、同年大島島司(支庁長)に就任。西郷の記念碑を発起し、明治29年勝海舟に碑文を依頼、明治31年(1898)建立。同年奄美大島離任後は、青森市長などを務めた。
※10 日当山温泉 西郷は、この家族・親戚での温泉旅行に先立って国分の山内甚五郎宛に書簡を出し、今回は子どもを含め多人数なので、どんなところでもかまわないから宿一軒を探してほしいと依頼している。なお西郷が入っていた湯(現在の日当山温泉センターの横にあった)は現存せず。
※11 北條巻蔵 元新庄藩士、鹿児島師範学校教師。明治12年(1879)2月、帰郷していた新庄から鹿児島に戻り、明治14年(1881)2月までの2年間、月俸20~30円(40万円ほど)で西郷の子供たちの家庭教師を務めた。その後新庄に戻り高等小学校長兼尋常小学校長になるが割腹自殺。
※12 西郷隆盛君誕生之地の碑
西郷13回忌にあたる明治22年(1889)、大山巌、西郷従道ら東京在住者が費用の大半を寄付し建立された。その大山(当時伯爵)の指示により、大久保邸跡に、全く同じ石材、同じ大きさで、名前と生年月日以外は碑文も全く同じという異様なかたちで「大久保利通君誕生之地」の碑が同時に建てられた。しかし大久保の生家は甲突川対岸の武村高麗町(鹿児島市高麗町)であった。大山は西南戦争のあと生涯、鹿児島に帰ることはなかった。(従道はこの年鹿児島に来て親戚と会っている。)
※13 南洲翁遺訓 明治23年(1890)1月18日、旧庄内藩士菅実秀らが西郷の言葉を集めた『南洲翁遺訓』を1000部刊行。旧庄内藩主酒井忠篤の指示により、同年4月より三矢藤太郎、石川静正ら6人が、風呂敷を背負って全国を行脚して頒布した。編輯兼発行人の三矢は約3カ月かけて東京・神戸・九州・四国を回るが、鹿児島県内でさばけたのはわずか19冊であった。
※14 西郷午次郎 明治3年3月18日(1870年4月18日)生まれ。糸子を引き取ったとき(49歳)麻布龍土町(現東京ミッドタウン)に住んでいた。妻ヒデ(秀)は明治19年(1886)生まれ、島根県津和野町の銅山王・堀礼造(藤十郎)の次女(実家「堀庭園」は現在、国指定の名勝)。午次郎は日本郵船退職後、渋谷南平台の西郷従道の所有地(その一部が現在西郷山公園(目黒区青葉台))を譲り受けてそこで暮らした。昭和10年(1935)6月没(65歳)。墓は杉並区永福町の大円寺にある。
長男隆一の娘伊津子は、昭和42年(1967)島津家当主修久と結婚。西郷の曾孫と久光の玄孫が結婚し、大久保の孫が仲人を務めた。(西郷崇拝者の多い鹿児島で大久保・川路が憎まれ、大山・従道が嫌われているのは当然としても、島津家が敬われていないのは、他藩の殿様と異なり維新後も利権を手放さなかったこと、西郷を重用した斉彬ではなく、痛めつづけたお由羅・久光の家系であることが大きい。)
※15 土持政照 西郷の格子牢を自費で座敷牢につくりかえ、その後も、囚人として沖永良部島にいた西郷の面倒をよく見た。なお格子牢で衰弱していた西郷の介抱をした妻マツ(先妻)は、大久保利通の父利世が沖永良部島代官付役だったときに島妻(チカヒルヤ)との間にもうけた娘。
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